相方城(佐賀田城)

県指定史跡

相方城(佐賀田城)

新市駅から南を見ると目の前に、山頂が削平され整形されたた山が見えます。
それが相方城なのです。
山頂まで車で上がれますが、産業団地の先にある古墳や神社から先は、離合できないため徒歩で登城することをお勧めします。

相方城の築城について詳しい資料が残っていないものの、宮氏もしくは宮氏の庶家のひとつであり、宮氏と対立していた有地氏の築城と考えられています。
その中でも、有地元盛の築城との説が有力となっています。



新市の市街地から見ると断崖絶壁とも言える急峻な山肌が比高170mの高さまでそびえています。
宮氏本家が尼子氏と友好関係にあり、尼子方として大内氏方と戦った際に、有地氏は大内方として毛利氏らと共に亀寿山城を攻めています。
開戦前に敵方である宮氏本家の宮直信が病死したが、跡を継いだ幼い宮元盛を押し立て激戦が繰り広げられたが、有地氏の奮闘もあり大内方が勝ち、宮氏本家は滅亡へと向かっていきました。




宮氏本家が力を失った後は、有地氏が実施手的な宮氏惣領となり毛利家に従い、この地を収めましたたが、有地氏の出雲への領地替えに伴い毛利氏の直轄領となりました。
それに伴い、主要部分が総石垣となり、瓦葺きの櫓を幾つも有した近世山城として改修されたものと考えられています。
打ち込み接ぎで築かれた石垣も、場所により精度や積み方が若干異なっているため、石垣の構築には長い期間が費やされたものと考えられます。
1600年の関ケ原の戦いで、毛利氏が敗れ長門・周防に入封される際に相方城も破却される事となり、建物遺構のうち城門2門と櫓1棟
が、素戔嗚神社に移築されています。



廃城の時に北側を中心に破却されたため、新市側にはっきりとした石垣は残っていませんが、南側には多くの石垣遺構が残っています。
この破却後の石垣も素戔嗚神社が権利を取得していた、といった話もあり、素戔嗚神社にある石垣は、もしかしたら相方城の破却された石を使っているのかもしれません。


主郭と東側郭群
東側郭軍は車が停めれる郭10となる大堀切から土橋を渡った先になり、主郭もこの東側郭軍にあります。
主郭行くには枡形口となる一段低い郭3を通り、郭2に出ることになります。
その先に一段高く切岸があり主郭となります。
主郭の東には郭4や郭5が主郭を取り囲むように配置されており、破却の際に崩落した上部を除き石垣が現存しています。
郭4と郭5の間にも枡形口が設けられており、防備が堅かったことが分かります。
石垣より一段下がった郭6と郭7には、絶壁の切岸が見られ、郭7よりさらに下がった場所に郭8があります。
ここを、さらに降ると神社の有る交差点に出ます。




西側郭群
西側郭群の中心となるのは郭9となります。
郭9は、東側郭群の石垣で守られた郭2、郭4、郭5と、ほぼ同じ高さで削平されており、東側郭群とつり橋で繋げられ周囲は石垣が組まれていました。
現在は、東側郭軍と同じように北側の石垣は分からないほど破却されています。
また、その他の石垣も上部が破却され、盛り土がなされていたであろう角が落ちていますが、十分に往年の姿をしのぶことができます。
郭9から西側には、小規模な郭8があり、東側には現在駐車場となっている郭10があります。
郭8の西を端として、続く郭はなく3重の大規模な空堀で守られています。

基本情報

所在地
〒729-3102 広島県福山市新市町相方1089−52
電話番号
営業時間
料金
アクセス
駐車場 あり
備考
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